球場のN子

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ピッチャーという存在について

 7月1日は朝から暑かった。厳密には、数週間前から途切れ目なくずっと暑かった。それらを嘆く言語は形を成す前に不完全な状態で口から漏れて出た。わたしはそのしょっぱい味の不完全体をマスクの中に蓄積させながらひとり、神宮球場を目指して歩いた。夕焼けのところどころにピンクとグレーの混じるやさしい空の色と、行く手を阻むみたいにごうごうと吹く向かい風が不似合いで妙だった。背番号21のユニフォームがばたばたとはためいた。

 その日は6対4でベイスターズが勝利した。初回で先制し、追いつかれ、勝ち越し、そのままリードは守りつつも出塁をゆるす場面は多く、そのたびに身体中からよくわからない汁が出た。生ビールが半額だったせいもあり、観客はいつもの数倍酔っている感じがした。最後は競り勝ったので、わたしはいい気分でうちに帰った。ユニフォームを脱ぐとじっとりとして重かった。カロリーを欲していたので、明日になる前につば九郎のべびーかすてらを3羽食べた。

 ところで、わたしは葛藤好きのマゾである。そういう人種にとって、ピッチャーのファンは天職である。応援する選手の登場場面は常に相手の攻撃のときなので、マウンドに鳴り響くのはもちろん相手の応援歌。失点のピンチを招こうものなら(相手の)チャンステーマがうなりうなり出す。こういう場合の行動としてはタバコ、トイレ、あるいは散策、あるいは早いめの帰宅と選択肢はいろいろあるけれど、ここで葛藤好きのマゾは、タオルをぐっと掲げ、呼吸もせずにすべての結果を背に受けるのを自ら選ぶのである。

 ピッチャーは、抑えて当然、打たれて敗戦という鬼畜すぎる条件下で球を投げている。それはファンなどとは比べものにならないくらいにしんどいはずで、わたしなんて「もうお前本当に適当に生きてますね」といった感じの人生を過ごしているので、そういう限界の姿を見ると、そのシーンを小説のように考察してしまい、腕を振るう力から汗をぬぐう仕草まで、飲み込まれるように惹かれてしまうのであった。

 ちなみにわたしは球種も配球もいまだによくわかっていない。