球場のN子

☁️☁️☁️🌞

お目覚め

 永い冬眠から目覚める感覚が、オープン戦にはある。

 わたしは2月のキャンプ中はまだ布団から出ないし、3月も中旬までは目を開くことすらしない。枕元の、充電ケーブルを差しっぱなしのスマホに手を伸ばし、日付を確認するのはだいたい20日を過ぎたあたりである。開幕が明日に迫るくらいになって、ようやくオープン戦の順位表をみた。下から2つ目にベイスターズの名前があった。

 歯を磨いているうちにシーズンが開幕した。結果は3連敗であった。阪神主催のゲームなのにドームなのはなぜ? くらいの一瞬の出来事であった。ここはどこ? 調べると阪神はいつも甲子園球場を高校球児に譲っているらしかったが、ベイスターズに勝ちを譲ってくれることはなかった。ベイスターズもわたしもまだ反解凍の状態なのだと思った。

 ふと、うちのマスコットのDBスターマンくんのことを思い出した。ハムスターは一度冬眠してしまうと永久に目覚めないことがあるらしいが、スターマンは無事に冬を越せたのだろうか。球場であの狂おしく愛らしいまるいフォルムを見るまでは、心穏やかではない。

 ちなみに、ベイスターズは今年、ベイパンチなる新しい打楽器を最先端の技術をもって開発することに成功した。それを柏手のようにスタンドで打ち鳴らすと、打線は活気づき、ストレートは冴え渡り、変化球はキレを増すそうである。これは鳴らさない手はない。わたしも早くハマスタに行きたい。

 今年も横浜DeNAベイスターズを全力で応援いたします。

 融解。

全力のノート

 ここにA5のノートがある。適当にページをめくると、なんだか、やたらと力のこもった手書きの文字がところ狭しと並んでいる。文字の色は原色に近い濃い青が目立つけれど、黄色もある。赤もある。ピンクもある。統一感はまったくない。田舎者のクローゼットのようである。

 この得体の知れないノートは、わたしの日記である。ひたすらベイスターズについて綴った、わたしの変態日記である。批評、分析の類ではない。「佐野、毎日猛打賞賞受賞」だの「桑原の美技にざわめくハマスタと、ほにゃらら町(自宅所在地)の八畳の部屋」だのといった感想未満の稚拙な文章を、無印良品の方眼ノートに思う存分に書き散らかし、最後に、その日打点・得点を記録した選手の名前を添えて完成、おしまい。といったものである。これをわたしは約半年間遂行したのであった。

 すべての試合について書くことは無論できなかったし、連敗を喫した土日明けと、今年相性の悪かった広島とのカードの翌日はよくずるけた。逆に、全然負けなかった8月は、試合のない日もペンがとまらなかった。最後の最後は、よくわからないけれど、今年一軍で一打席以上立った野手と、一球以上投げた投手全員にメッセージを書いて、これにてシーズンを終了とした。

 読み返してみると、内容云々というよりは単純にその文字の量に驚愕した。よくこんなに書いたものだと思った。話したら数秒のひとつの事象に対して、わたしはなんやかやと書きすぎなのであった。現実の10倍は饒舌である。むっつりの性である。むっつりとは、口には出さずに頭でよく噛んで思考し、ふんふんしてしまう生き物なのである。

 これらはすべて年末には燃やす予定である。黒歴史になる前に即焼却、即抹消はわたしの世代にとっては常識である。最初から燃やすつもりではじめたから、自由にやれたのだと思う。

 つい先日、ファンクラブをシルバーステージで契約更改した。来年もベイスターズを全力で応援したいと思います。

 本当に本当に、ありがとうございました。

遠征の行方(下)

 わたしは愛知県の土地勘がまるでない。初上陸なのだから当たり前である。

 アクセスガイドによると、バンテリンドームの最寄駅は「地下鉄・ナゴヤドーム前矢田」駅または「大曽根」駅らしいのだけれど、わたしはそのどちらの名前も聞いたことがなく、泊まるホテルとの位置関係はもちろんのこと、駅の規模も、雰囲気も、周囲の駅とのヒエラルキーもわからなかった。

 そうなると、初心者はやはり字面の見慣れたJRを自然と選んでしまうものである。よく見ると「徒歩15分」と書いてあるけれど、所要時間というのはだいたい長めに表記されているから実際は7〜8分くらいだろうと解釈し、わたしは大曽根駅を目指してJR中央本線に乗った。

大曽根大曽根

 アナウンスが鳴り響く。下りたホームの駅看板には「大曽根」と大きく書いてある。間違いない、大曽根駅だ。わたしは改札を出てあたりを見渡した。あまりにものどかであった。そして、ドームはどこにも見当たらなかった。ドラゴンズファンどころか、一般人すらまばらなのである。

 違う。わたしのイメージする大曽根駅は、改札を出るとまずドラゴンズの青の巨大なるポスターがどーんと貼ってあり、ぞろぞろと移動するドラゴンズファンに導かれて通路に出ると、右手に立浪監督、大野、柳、左手に大島、ビジエド、高橋周平のずらりと並んだ、そういうところだった。

 そうか、わたしはきっと下りる駅を間違えたのだ。人のいない、ぽっかりとした小さなロータリーを前に、ははは、やってしまった、なにせはじめてなものだから、へっへっへ、などとはにかんでいると、頭上のななめ前に「ドームはこちら」といった主旨の看板があるのに気づいた。ここが大曽根駅であるのは間違いなかった。わたしはぬるまった特茶をごくりと飲み、痩せてしまうな、とそうつぶやいて、まっすぐの道をとぼとぼと歩きはじめた。

 ドームの隣にあるイオンモールに着く頃には、わたしはすでにへとへとだったけれど、そこにはビジターのユニフォームを羽織ったベイスターズファンと大勢のドラゴンズファンがいて安心した。ようやくやってきたのだと実感した。

 モールを抜けるとドームがどーんとすぐそこに見えた。わたしはドアラの人形焼の屋台を見つけると、10個入りの小ぶりなのと、手のひら大のを2個買った。うちに帰ってから食べたけれど、しっとりとしておいしかった。小さいのはホテルで結構食べてしまい、最終的に東京に持ち帰ったのは3個くらいだった。

 ドラゴンズの選手の旗のゆらめく通路を渡り、ドームの前に出た。わたしはよし記念写真を撮ろうと果敢に自撮りをし、それからドラゴンズファンの男性二人組に「写真を撮ってほしい」と頼まれて対応した。撮ってから少し話していると、わたしはどうやらドラゴンズファンと思われていたようだったので、途中で訂正した。今日はよろしくお願いします、とにこにこと挨拶をして別れた。現地のドラゴンズファンと交流できてわたしはうれしかった。

 試合は2対1でベイスターズが勝利した。相手の先発の高橋宏斗くんがとてもよかった。ロメロはよく踏ん張った。そして、佐野はよく打ってくれた! わたしは祖父江のキャラメル王子パフェと串カツを食べた。パフェは想像の倍の大きさであった。わたしは名古屋の椀飯振る舞いに感動した。でかいパフェほど、テンションの上がるものはない。帰りは人の流れに身を任せているうちに名古屋に着いた。

 ホテルに帰ると、投手戦って腹減るよな、とかなんとか、打撃戦だって減るくせに言い訳をして、まずはドアラの人形焼を半分以上食べた。それからお土産に買ったドアラのゴーフレットとラングドシャまで容赦なく開封し、貪った。わたしの飽食は、深夜にまで渡った。

 翌日は名古屋城を観光、大須商店街を闊歩し、お土産をたんまりと買って新幹線に乗り込んだ。ひとい降雨で移動はつらかったけれど、観光地はかえって空いていたのでラッキーだった。例の飽食の際に食べた小倉トーストのラスクがうますぎたので、追加で5箱買った。その他、いろいろの場所で買った大量のお土産を隙間なく詰め込んだキャリーケースは、帰宅するとすぐに爆発した。

 わたしの記録は以上である。

遠征の行方(上)

 ここに記すのは、わたしの名古屋旅行もとい名古屋遠征の最中に起こった出来事と、その反省の備忘録である。それらすべての要因はわたしにあり、愛知県、中日ドラゴンズバンテリンドームに一切非はない。そこは力強く否定しておきたい。では、はじめよう。

 7月。久々の三連休の最終日の朝、わたしは東京を発った。行き先は名古屋。目的は、その日の夜に行われる予定の中日対横浜の試合を観戦することである。わたしは念願の名古屋初上陸に凡乳をどんどこと躍らせながら、新幹線に乗り込んだ。

 10時過ぎに名古屋に着いた。わたしは今夜泊まるホテルに荷物を預けたかった。

 迷宮・東京駅に比べたらやさしいはずの名古屋駅だけれど、わたしは幾度目の横浜駅ですら目的のパンをまともに買えんのだから、やはり当然道に迷った。ホテルのホームページには「太閤通口を出て云々」と書いてあるが、わたしは一向に「桜通口」あたりから抜け出せず、表示を見つけては見失い、やがてまた「桜通口」に戻ってきてしまうのを繰り返して、そして絶望した。頼みのグーグルマップも己を見失いぐるぐるしている、わたしたちはもうダメだった。

 ひっくり返ってタクシーに助けを求めた。タクシーは我々をものの数分で目的地まで送り届けてくれた。とっくに乗ればよかった。クーラーの効いた車内で、わたしは虚脱した。ホテルに荷物を預け、用をたすと少し回復した。

名古屋市市政資料館」から「文化のみち」を練り歩き、ホテルに戻ったのは15時過ぎだった。わたしは、ひとりになると箍が外れたようにべらべらとしゃべってしまう奇癖を、名古屋でも発揮していた。ご機嫌でベイスターズのスタメンを勝手に発表するなどしながら、どろどろに溶けた化粧をまず直そうとキャリーケースを開けると、ファンデーションが入っていなかった。終わった、と思った。大袈裟である。百歩譲って今日はよい、問題は明日だ。

 新しく買う他に選択肢はないので、それは試合前にどこかのマツキヨで買うことにしよう。気を取り直してヘアアイロンの電源を入れた。ヘアアイロンはあったので安心した。

 ビジターユニフォーム、キャップ、タオルは「I☆YOKOHAMA」と「絶対勝つぞ」の2枚を手荷物に加えて、しまっておいたチケットの日付を見る。ここで間違っていたらファンデーションどころの話ではないほどの絶望だけれど、そこはわたしもくどいくらいに確認してから買ったので、心配はなかった。よし準備万端である。

 16時、わたしは気合を入れてホテルを出発した。(下へつづく)

献血

 めまいを起こした同級生を保健室まで送り届けると、教師に、もう大丈夫だからあなたは早く授業に戻りなさい、と言われて廊下に放り出される。はい、と返事はするけれど、窓の外はめちゃくちゃに照りつける太陽とセミの唸り声でぎゃんぎゃんしており、その中で行われる体育の授業になんてまったく参加したくないわたしは、校庭に背を向け、ずんずんと廊下を逆行した。これを青春に昇華させるには、このまま、まるっと逃避行するのが手っ取り早いのだけれど、わたしは小心ゆえに一歩進むごとに増す罪悪感に耐えられず、結局すぐに地獄の釜へと引き返してしまうのであった。その同級生のめまいの原因は貧血らしかった。

 上記はわたしの創作の思い出話である。わたしの学生時代はこんなに整ってはいなかった。かといって、吉祥寺あたりにある雑貨屋の陳列棚の、所狭しと置かれた商品の混沌としたかわいらしさのようなものもなかった。捨てるタイミングを逃した教科書とプリントの雪崩れに、ぶわっと、白く細かいほこりの被さっている感じである。正直、おぼえていないのである。

 そして、この文章もまったくゴールを見失ってしまった。本当は、はじめて献血をしたことを備忘録としてここに記そうと思っていた。貧血の同級生を回顧する、という入りがそもそも間違っていたのだと、いまは反省している。

 わたしの献血体験なんてもうどうだっていいのだ。400mlを献じたかったのに体重の規定で200mlとなったこと。それからアクエリとブリックパックのカフェオレとトイレの芳香剤とキーホルダーをもらったこと。以上、それだけです。

ピッチャーという存在について

 7月1日は朝から暑かった。厳密には、数週間前から途切れ目なくずっと暑かった。それらを嘆く言語は形を成す前に不完全な状態で口から漏れて出た。わたしはそのしょっぱい味の不完全体をマスクの中に蓄積させながらひとり、神宮球場を目指して歩いた。夕焼けのところどころにピンクとグレーの混じるやさしい空の色と、行く手を阻むみたいにごうごうと吹く向かい風が不似合いで妙だった。背番号21のユニフォームがばたばたとはためいた。

 その日は6対4でベイスターズが勝利した。初回で先制し、追いつかれ、勝ち越し、そのままリードは守りつつも出塁をゆるす場面は多く、そのたびに身体中からよくわからない汁が出た。生ビールが半額だったせいもあり、観客はいつもの数倍酔っている感じがした。最後は競り勝ったので、わたしはいい気分でうちに帰った。ユニフォームを脱ぐとじっとりとして重かった。カロリーを欲していたので、明日になる前につば九郎のべびーかすてらを3羽食べた。

 ところで、わたしは葛藤好きのマゾである。そういう人種にとって、ピッチャーのファンは天職である。応援する選手の登場場面は常に相手の攻撃のときなので、マウンドに鳴り響くのはもちろん相手の応援歌。失点のピンチを招こうものなら(相手の)チャンステーマがうなりうなり出す。こういう場合の行動としてはタバコ、トイレ、あるいは散策、あるいは早いめの帰宅と選択肢はいろいろあるけれど、ここで葛藤好きのマゾは、タオルをぐっと掲げ、呼吸もせずにすべての結果を背に受けるのを自ら選ぶのである。

 ピッチャーは、抑えて当然、打たれて敗戦という鬼畜すぎる条件下で球を投げている。それはファンなどとは比べものにならないくらいにしんどいはずで、わたしなんて「もうお前本当に適当に生きてますね」といった感じの人生を過ごしているので、そういう限界の姿を見ると、そのシーンを小説のように考察してしまい、腕を振るう力から汗をぬぐう仕草まで、飲み込まれるように惹かれてしまうのであった。

 ちなみにわたしは球種も配球もいまだによくわかっていない。

ノーヒットノーランの追憶

(敬称略)

 先週のことを思い出しながら、思い出そうとしていることにショックを受けた。

 あんなに高揚し感動したはずなのに、目に浮かぶのは、翌朝のスポーツ紙の一面が必ずしも今永ばかりではなかったあの光景だった。わたしはコンビニの入口で呆然として立ち尽くし、それでもなんでもと5紙を購入すると、じめじめとしたほの暗い地下鉄に乗り込んだのだった。

 脳には、わたしがいい気持ちでいられるようないい塩梅で情報を整理してほしいものだ。臭い地下鉄の記憶など、優先的に消されるべきどうでもいい情報である。そんな不要な情報のために最も尊い記憶を失ったのだと思うと、ショックはさらに増した。

 なぜわたしは今永がノーヒットノーランを達成した瞬間をよく覚えていないのだろうか。今永は本当にノーヒットノーランを達成したのだろうか。もしかするとこれは、阪神とのゲーム差におびえるベイスターズファンの捏造した虚構なのだろうか。

 わたしは急に不安になり、Googleで「今永」と検索してみた。ネットニュースの見出しがずらりと並んだ。安堵したのと同時に、今度は呼吸を忘れた。指先から全身に向けて衝撃が走り、ぶるりとして二の腕をさすると、すべての毛穴が起立してぶつぶつとしていた。

 よかった。

 今永選手、おめでとうございます。